南イタリアおひとりさま旅Vol.4、【世界遺産】ポンペイ遺跡!ルパナーレ(遊郭)、フォロの広場

南イタリアおひとりさま旅Vol.4、【世界遺産】ポンペイ遺跡!ルパナーレ(遊郭)、フォロの広場

今日の神戸は、晴れのち曇。 
また雷雨の可能性があるみたいです。

昨日は、スポーツクラブに行って、ヨガと、ZUMBA♪、
フットケアマッサージに、筋膜ほぐし、お風呂。
お風呂には、キャビスパ忘れず持って行きました!

さて、南イタリアおひとりさま旅のお話の続きは、
引き続き【世界遺産】ポンペイ遺跡 

7.20ポンペイ遺跡 (31)_resized
この通りは歓楽街で、ルパナーレという遊郭が並んでいた場所だそうです。

7.20ポンペイ遺跡 (33)_resized
娼婦たちは、窓から客引きしたと言われています。

7.20ポンペイ遺跡 (34)_resized
ポンペイ遺跡ガイドによると、
『遊郭の娼婦たちは、主に東方やギリシアの奴隷たちで、
銅貨2から8アスで商売をしていました(その当時グラス1杯の葡萄酒が1アス)。
建物は2階建てになっています。
上の階には主と奴隷たちの住居があり、下の階には5つの部屋が
あって、どの部屋にも石と漆喰でできた作り付けの寝台が備わっていました。
これらの部屋は1階の二つの出口をつなぐ廊下に
沿って並んでいました。
各部屋の入り口にはカーテンが扉の代わりにかかっていました。
廊下の行き止まり、階段の空間の下には共同のトイレがありました
中央の廊下の壁には、官能的な絵が配されて、
ここで提供されるサービスを客に示していました。
ルパナーレの呼び名はラテン語のlupa、娼婦を卑下するのに
用いた言葉に由来しています。 発掘時期: 1862.』という。

7.20ポンペイ遺跡 (35)_resized
サービスメニューの壁画

7.20ポンペイ遺跡 (36)_resized
石のベッド、とても堅そうなんですけど~~

Wikipediaによると、
『町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。
娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた
壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは
快楽の都市とも呼ばれる。
ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、
火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が
多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だった
ことが伺える(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動
によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、
当時は港もあり海洋都市でもあった)。
碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。
市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市
であることも分かっている。
また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような
商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。』という。

7.20ポンペイ遺跡 (38)_resized
水飲み場

7.20ポンペイ遺跡 (39)_resized
石のこちらに見えるのは、昔の水道管 
紀元前からこのような技術があったのでしょうか?!

7.20ポンペイ遺跡 (40)_resized

7.20ポンペイ遺跡 (41)_resized

7.20ポンペイ遺跡 (42)_resized
こちらは、馬の綱をつないでおく穴。 

7.20ポンペイ遺跡 (43)_resized
こちらも水飲み場。
目印になるよう、1つ1つ違ったデザインになっています。

7.20ポンペイ遺跡 (44)_resized
どなたの邸宅かちょっとわからないのですが、
邸宅内には、夏を過ごす場所や、冬を過ごす場所など、
季節によって快適に過ごす場所があるそうです。

7.20ポンペイ遺跡 (45)_resized
玄関のタイルも、とってもきれいですね!
とても大昔のセンスとは思えない高い知能と技術を感じさせられます。

7.20ポンペイ遺跡 (46)_resized
フォロの広場へ通じる道、

7.20ポンペイ遺跡 (47)_resized
馬を停めておく場所  

7.20ポンペイ遺跡 (48)_resized
フォロの広場

7.20ポンペイ遺跡 (49)_resized
ポンペイ遺跡ガイドによると、
『市民のフォロは市民の日常生活の中心の場で、
これに面してすべての公共の建物が並び、町の運営、
司法による裁き、事業の管理、市場などの商取引が
行われたほか、町の信仰の場でもありました。
フォロの広場はもとは打ち固めた地面でほぼ定型の
単純な開放空間で、西側でアポロンの聖域に隣接し
東側には商店が並んでいました。
フォロは紀元前3から2世紀にかけて根本的に造り直され、
正確な形と凝灰岩のスレートを敷き詰めた床を持ち、
回廊に囲まれた姿に変身しました。
広場の中心軸はヴェスヴィオ山を結ぶ直線状にある
ジュピター神殿のファサードを起点に引かれました。
帝政時代の初期に、フォロの床は新たにトラヴァーチン
で敷き直されました。
このうち幾つかの敷板は取り払われて、できた窪みには
重要な碑文を刻んだブロンズ製の板が嵌め込まれました。
この部分の発掘はマリー・カロリーヌ・ボナパルテの希望で
開始されて間もなく、すでに古代に盗掘されたいたこと
が判明しました。  発掘時期: 1813.』という。

7.20ポンペイ遺跡 (50)_resized

7.20ポンペイ遺跡 (51)_resized
ジュピターの神殿:また変なオブジェが大変邪魔なんですが、
遠くに見える高い1本の柱の左側に、ジュピター像があるそうです。
右側にある門(名誉のアーチ)の上には、ヴェスヴィオ山が
そびえていますが、この時も煙の中に隠れてしまっています。
私達がイタリア滞在中見る時はいつも、黄砂のようなものだと
言われるこの煙が、ヴェスヴィオ山にかかっていました。

ポンペイ遺跡ガイドによると、
『ジュピターの神殿はフォロの北側を占め、その後ろには
まるで映画の背景のようにヴェスヴィオ山が聳えています。
ローマの植民都市に組み入れられてから(紀元前80年)、
神殿には大きく手が加えられて正真正銘のカピトリウムに
生まれ変わり、ジュピター、ユノー、ミネルヴァの三神の像が
祀られ、ローマのカピトリウムに準じて整備されました。
高い基壇の上に建ち、フォロを通る誰の目にも入る建築でした。
新たな工事によって聖像安置室が延長され、床には
大理石製の立派な装飾が施されました。
基壇にはファビサエと呼ばれる地下室が造られ、
本来は神々に捧げられた奉納物を収める空間でした。
幾つかの研究成果によれば、この空間はその後町の公共の
財産を保管するのに使われたと言われています。
ルシウス・セシリウス・イヨコンドゥスの家のラル神の祭壇
にあるレリーフによって、カピトリウムの基壇の左右には
2体の騎馬像が置かれていたことが判ります。 
 発掘時期: 1810; 1816; 1820.』という。

7.20ポンペイ遺跡 (53)_resized
名誉のアーチ
ポンペイ遺跡ガイドによると、
『フォロの北側に位置するジュピター神殿の両脇には、
古代にはレンガ造りで大理石で化粧張りされた
二つのアーチがありました。
東側にあったアーチはわずかに基壇が残るのみで、
カリギュラ皇帝に捧げられ、彼の死後取り壊されました。
西側にあったアーチは、ティベリウス帝の息子ドゥルーゾ
に捧げられたものでした。
前出のセシリウス・イオコンドゥスの家に残るラル神の
祭壇のレリーフからは、紀元62年の地震で倒壊し、その後
建て直して再度装飾された様子が描かれています。
フォロの回廊の東側にある出口の北側には二つの半円筒
ヴォールトからなる別のアーチがあって、かつては大理石
で覆われていました。
上部には大きな水槽が載っていて、正面外側にある泉に
水を供給し、ユリウス-クラウディウス朝の諸皇帝の像で
飾られていました。
おそらくはゲルマニウスに捧げられたもので、カリギュラ帝
のアーチの代わりを果たしていました。
ティべリウス帝の時代(紀元14-37年)にはフォルトゥーナ・
アウグスタ神殿の近くにメルクリオ通りを跨ぐ形で
別のアーチが建てられました。
このアーチによって、諸皇帝の祭祀に関連した一連の
建物の列が終了します。    発掘時期: 1816.』という。

7.20ポンペイ遺跡 (65)_resized
反対側の門からフォロの広場を見た景色



ブログランキングに参加しています
 クリックしてね! 



スポンサーサイト
Guide
  •  …この記事と同じカテゴリの前後記事へのページナビ
  •  …この記事の前後に投稿された記事へのページナビ
 

~ Comment ~

  ※コメントの編集用
  シークレットコメントにする (管理者のみ表示)

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

MENU anime_down3.gif

同じカテゴリの記事が一覧表示されます
同じタグの記事が一覧表示されます
更新月別の記事が一覧表示されます
キーワードで記事を検索