南イタリアおひとりさま旅Vol.5、【世界遺産】ポンペイ遺跡!フォロの浴場、遺体の石膏型

南イタリアおひとりさま旅Vol.5、【世界遺産】ポンペイ遺跡!フォロの浴場、遺体の石膏型

今日の神戸は、晴れ!
今日も、朝から蝉の声がして、暑くなりそうですね。

昨日は、アクアズンバと、プールサイドストレッチ、
平泳ぎ500m、クロール500m、
ヨガ、筋膜ほぐし、ブルブルマシーン、お風呂。
キャビスパも、あまり効いている気がしないんだけど、30分ぐらい。
継続は力なり 

昨日は、いつものことなんだけど、ヨガの時から眠たくて仕方がなく、
夕食後、録画していた、細田守監督の「バケモノの子」
を観て(なかなか面白かったです)。
ビールなど飲んでいたんですが、
珍しく、12時10分前に寝ました!
そのせいか、今朝は、早起きです!

さて、南イタリアおひとりさま旅の続きのお話は、
引き続き、【世界遺産】ポンペイ遺跡 

7.20ポンペイ遺跡 (54)_resized
フォロの浴場です!
ポンペイ遺跡ガイドによると、
『ジュピター神殿の後ろに位置し、将軍シッラによって
ポンペイがローマの植民都市となって(紀元前80年)
間もなく建設されました。
入口は婦人用と男性用に分けられていました。
男性用の区画ではアポディテリウム(脱衣場)がテピダリウム
(中温の風呂)としても利用され、続いてフリジダリウム(低温の風呂)、
カリダリウム(高温の風呂)がありました。
ポンペイの他の多くの建物と同様に、この浴場も紀元62年の
地震で大きな被害を受けています。
現在見られる状態の大部分は、その後の修復作業の結果と言えます。
内部装飾の素晴らしさは注目に値し、入浴の際に衣類や
持ち物を置くためのニッチにはテラコッタ製の男性像が
飾られ(テラモニ)、アポディトゥリウムとテピダリウムの
スタッコ仕上げのレリーフのあるヴォールトなどが特筆されます。
同じ空間には暖房に使われたブロンズ製の大きな火鉢が見られます。
婦人用の区画はより小さく、噴火の時点では修復中でした。
男性用の施設入口の近くでは、夜間の開場時間に使われた
カンテラが500個以上も見つかっています。
発掘時期: 1823-1824.』という。

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カリダリウム

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テピダリウム 

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浴室の壁は、二重になっていて、壁と壁の間に
沸かした湯を流して、浴室を暖めるという壮大なシステム
が採用されています。
古代人の知恵と、努力に感服です 

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パン焼き釜のある家

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ここは、ガイドブックに載っている家とは違うのですが、
ポンペイ遺跡ガイドの「パン焼き釜のある家」の解説によると、
『最初に建てられたのは紀元前2世紀ですが、紀元62年の
地震の後で修復工事が行われた際にパン屋に作り替えられました。
地上階は仕事場になり、店のオーナーはおそらく上の階に
住んでいたものと推定されます。
パン焼きは非常に利益の上がる商売で、ポンペイではこれまでに
30以上ものパン屋の跡が確認されています。
パンを焼く大きなかまどの他、家の裏側にはペリスティリウムを
改修して造った石畳の空間があって、麦を製粉するための
巨大な4つの溶岩性の石臼と洗浄用の水桶が置かれていました。
ひき臼の上部に差し込んだ木製の棒を人またはロバの力で
回転しさせて使用していました
ペリスティリウムの隣にあった家畜小屋からはラバの骨が
一体丸ごと見つかっています。発掘時期: 1809-1810.』という。

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フォロの穀物倉にある遺体の石膏型:
噴火で埋まった人々の部分に、石膏を流し込んで、
死に至った状態そのままを形どっています。

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人や、犬の型なども取られていますが、
リアルな動きのままで驚かされます。

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こちらは、犬です。

ポンペイ遺跡ガイドによると、
『フォロの穀物倉:フォロの西側に広がり、レンガの柱で
仕切られた8つの開口部を持つ建物で、果物と野菜の市場
として使われていました(フォロ・オリトリオ)。
今日ではポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われ、
1800年代の終わりからこの都市で行われてきた発掘による
出土品9千点以上がここに保管されています。
ポンペイ最後の10年間に日常の生活で使われた、鍋などの
テラコッタ製品、竈や水差し、瓶、アンフォラ、油や葡萄酒、
魚精を地中海全域から運搬するための大きな容器などが
収蔵されています。
他にも、家々の入り口を飾っていた大理石製のテーブルや
噴水用の水槽、犠牲者や犬、樹木の石膏型などが陳列されています。
建物は紀元62年の地震の後で建設され、噴火が起きた時点
ではまだ工事が完成していなかったのではないかと想像されます。  
発掘時期: 1816-1822.』という。

Wikipediaによると、
『<79年のヴェスヴィオ火山噴火>
ポンペイ遺跡、噴火
79年のヴェスヴィオ山(ラテン語名:ウェスウィウス)噴火
による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。
火砕流による被害地域よりもはるかに広い。

62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや
他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。
町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も
完全には終わらない79年8月24日の午後1時頃に
ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、
ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。
降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者の
ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、
ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、
煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・
プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)に
よる当時の記述から知られている。
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家
タキトゥスに宛てた手紙である。
これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の
火口付近から、松の木(イタリアカサマツ(英語版))のような
形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ
のを見たと記録している。
火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。
これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が
雪崩れのように流れる現象である。
プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。
さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、
海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。
ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami) という言葉を
持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。
プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われて
よく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために
船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。
二酸化炭素中毒によるもの(訳者註:二酸化硫黄のことか?)
と現在では考えられている。
噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を
出すが、市は壊滅したあとだった。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、
これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いた
ポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から
逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。』という。



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