お正月、広島・山口旅行Vol.18、原爆ドーム、おりづるタワーと、インフルエンザ

お正月、広島・山口旅行Vol.18、原爆ドーム、おりづるタワーと、インフルエンザ

今日の神戸は、晴れ!
霧雨が降ったリして、とっても寒いです。

昨日は、ZUMBA♪と、ヨガと、筋膜ほぐし、ストレッチ、
お風呂でキャビスパ!
その後、骨盤矯正に行ってきました!

昨日、朝、ベッドで体温を計ると、37.1℃。
風邪ひいたのかな  と思っていたのですが、
夜、晩御飯を食べた後に計ってみたら、39.2℃ 
めっちゃすごい熱やん!
喉が少し痛いかもしれない、ぐらいの症状なのだけれど。
今朝は、ベッドで計ると、38.7℃ 
起きてから計ると、36.4℃ 
何でそんな急激に体温下がるん 
しばらくして計ると、37.7℃
インフルエンザかと思ったんですが、熱そんなに上下する 
何だか体温の上がり下がりが変で、気になります。
病院へ行って検査したら、弱いインフルエンザの反応が出ているので、
多分インフルエンザだとのこと。
多分って何 
明日ぐらいには、熱も下がるだろうということでした!
もっと長引くようなら、また来てくださいとのこと。
タミフルと、解熱剤もらってきました!

さて、お正月、広島・山口旅行、続きのお話は、広島焼きを食べた後、
すぐ近くの原爆ドームを見に行きました 
1.2広島平和公園 (2)_resized
Wikipediaによると、
『原爆ドーム(英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる
広島平和記念碑(英: Hiroshima Peace Memorial)は、
日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍
今に伝える記念碑(被爆建造物)である。
元は広島県の様々な物産を展示するために広島県物産陳列館
として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、
「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、
特に負の世界遺産と呼ばれている。

1.2広島平和公園 (3)_resized
所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10。
原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、
西から南にかけては元安川を挟んで
広島平和記念公園が広がっている。
北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、広島市民球場跡地と向き合う。
東側約200メートルの位置に、爆心地に比定される島外科(島病院)がある。』

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この川の辺りを、灼熱地獄から逃れようとした人々が、
折り重なって息絶えていったのでしょうか。

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小さい頃に原爆ドームには来ているのですが、
世界遺産になってから整備されたのでしょうか?
悲惨さよりも、随分きれいな感じがします。

1.2広島平和公園 (8)_resized
小さい時訪れた広島平和記念資料館では、
影のように溶けてしまった人の恐ろしさを覚えています。

1.2広島平和公園 (9)_resized
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、
アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する
相生橋を投下目標として原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。
投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点
現島外科内科付近)で炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの
数千倍という熱線
に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。
0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上
の爆風
(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、
350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。
このため建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分が
ほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、
1.衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
2.窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の
空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
3.ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。
銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、
爆風が通過しやすくなったこと
などが挙げられている。ドーム部分は全体が押し潰されるほどの衝撃を
受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物
(被爆建物)として残った。
原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、
爆発に伴う大量放射線被曝熱線・爆風により全員即死したと推定されている。
なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は
原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、
原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、
やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついにレンガや鉄骨などを残すだけとなった。

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広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。
その中でドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、
サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる
1951年(昭和26年)頃にはすでに、市民から「原爆ドーム
と呼ばれるようになっていた。
復興が進む中、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められ、
当初は産業奨励館廃墟も取り壊すべきだという意見も多かった。
新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示し、同情を引こうとする貧乏根性を、
広島市民はもはや精算しなければいけない」(夕刊ひろしま、1948年(昭和23年)
10月10日付)等と書き立てた。
しかし1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定されると、
恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として
広島平和記念公園構想が本格化する。
1953年(昭和28年)に、所有権が広島県から広島市に移転される中で、
原爆ドームこと産業奨励館廃墟の除去はひとまず留保され
、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による
広島平和記念公園(平和公園)が完成した。
この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑・
広島平和記念資料館
が南北方向に一直線上に位置するよう
設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図があった。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、
1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じた。
一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、
取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。
広島市当局は当初「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、
さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」
などの理由から原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性
が高まっていたが、議論の流れを変えたのは、市内の大下学園祇園
高等学校の生徒・楮山ヒロ子の日記である。
楮山ヒロ子は、1歳のときに広島市平塚町(現在の中区東平塚町
・中平塚町・西平塚町)の自宅で被爆し、15年後の1960年(昭和35年)に
あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、
おそるべき原爆のことを後世に訴えかけて
くれるだろうか
」等と日記に書き遺し、被爆による
放射線障害
が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。
この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎
広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、
1966年(昭和41年)に広島市議会が永久保存することを決議する。
翌年には保存工事が完成し、その後定期的に補修工事が施されるなど
広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年
(平成7年)に国の史跡に指定され、
翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。
世界遺産ブームの中、さまざまな年代・国籍の人が多く訪れるように
なった一方、立ち入り禁止区域(廃墟の部分は柵で囲まれ封鎖されている)
に入って落書きや悪ふざけをするなどの心無い行為・迷惑行為が問題になっている。

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1992年(平成4年)に日本国政府が世界遺産条約を受諾したこと
を契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補
リストに登録するよう要望する」意見書を採択。
市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。
全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた
国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。
1992年当初、日本国政府は「世界遺産への推薦には”その遺産が
国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること”
が条件」であるとしており、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に
指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの
推薦には消極的であった(しかし日本国外では、アウシュヴィッツや、
アパルトヘイトに反対する政治犯を収容したロベン島、ベルリンの
モダニズム集合住宅群など、「歴史が浅く」ても、国内法によって
保護された上で世界遺産に登録された例は複数あった)。
文化庁が消極的だった背景には、アメリカ合衆国や中華人民共和国
・大韓民国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていたが、
結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながり、上記のような
多数の署名者を得ることになった。
1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然
記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。
これを受けて、日本国政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。
原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催
された世界遺産委員会会合において行われた。
このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、
調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」
との文言を削除させた

(アメリカ合衆国国内では「原子爆弾使用によって、100万人の
アメリカ軍将兵を失うおそれのあるダウンフォール作戦(日本側の
呼称は本土決戦)を回避できた」「投下はやむを得なかった」として
原爆投下を肯定する意見が強い)。
また、中華人民共和国は「日本の戦争加害を否定する人々に利用
されるおそれがある」として審議を棄権した。
審議の結果、原爆ドームは文化遺産として登録された。』という。

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慰霊碑に、黙祷 

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おりづるタワー(HIROSHIMA ORIZURU TOWER)
Wikipediaによると、
『広島県広島市中区大手町にある複合商業施設。
原爆ドームの東90メートルの位置に隣接している。
1978年(昭和53年)3月13日、「広島東京海上ビル」(後の
「広島東京海上日動ビル」)としてオープン。
東京海上火災保険(後の東京海上日動火災保険)が総工費30億円で建築した。
建築当時、屋上看板を東側・北側のみに設置し、広島平和記念公園が
ある西側・南側については設置しない。
壁面色も、落ち着いた淡いベージュ色のタイル張りにするなど、
建築当時としては景観に配慮していた。
その後、マツダのディーラーである広島マツダが2010年(平成22年)
に取得し「広島マツダ大手町ビル」に改称]。
2013年(平成25年)8月に改修計画が発表された。
改修の理由として、1981年(昭和56年)以前の旧耐震基準で作られた
建物の耐震性能の向上を目的としたほか、周辺環境を考慮して
建替では無く建物の改修を選択した。
2014年(平成26年)12月に改修工事に着手。
2016年(平成28年)7月に、1階のカフェと物産館
12-13階の展望スペースが先行してオープン。
同年9月に全ての改修が終わりグランドオープンした。
総事業費は約70億円。
おりづるタワー事業を担当した5人は全員プロパー社員ではなく、
中途採用の転職組により行われた。
設計者の三分一博志は、既存の約50m余りのビルについて
小さな地形と見立て、「世界文化遺産と共存し得る建物」をコンセプトとし、
建物全体は周辺の広島平和記念公園(原爆ドーム)との調和を配慮した
色を選んだ上で全面的に壁面を緑化。
歩いて上ることが出来るスロープや腰掛けることが出来る丘を整備。
風を取り入れるために外壁を全て取り除き骨組みのみにし、
建物の重量を減らすことで耐震性能を向上。
西側のバルコニーと東側のスロープについては、夏の直射光を避け
風通しを良くするほかに、耐震の構造補強も兼ねている。
各方位のバルコニーには、夏の風の流れを考慮したルーバー・ウインド
キャッチャーを設置し、併せて夏場の直射日光・西日が入らない様に配慮している。
これらの景観配慮は、当地が世界遺産である原爆ドームのバッファーゾーン
内にあり市条例「平和記念施設保存・整備方針」によって
厳しい制限が設けられており、特に「平和記念公園から見た原爆ドームの
背景を世界遺産に相応しい景観」にする必要があったためで、
市との協議を重ねた結果によるものである。
館内は、1階は、カフェ「握手カフェ -PARK SIDE-」と
物産館「SOUVENIR SELECT 人と樹」。
2階は、平和教育にも利用できる貸会議室。
3階から11階まではオフィスになっている。
12階以上の展望スペースの入場は有料
12階に「おりづる広場」が整備され、来館者が折ったおりづるを
北側壁面に整備された、ガラスで吹き抜けになった
おりづるの壁」に落とし入れる事が出来る。
屋上階は、展望スペース「ひろしまの丘」カフェ「the Akushu
Cafe -windside-
」が整備された。
「ひろしまの丘」は、来場者が風を強く感じられる様に工夫し、
腰掛けることが出来る丘と、大きな庇を整備した。
屋外東側には、1階から屋上まで続くスパイラルスロープ「散歩坂」。
スロープの横に整備された滑り台は、避難用だけでは無く、一般客も
自由に利用することが出来る。
年間来場者数は約38万人を見込んでいたが、プレオープンから2ヶ月後
の来場者数が約3万人と、目標の約半数の来場者数にとどまっている。
おりづるタワーを作った広島マツダの松田哲也は、市民から
入場料が高いと言われている件について、世界から集まる観光客に
恥ずかしくない物を作るため。一企業が運営する以上、採算的に
成り立たせないといけないためと理解を求めている。
また広島の象徴として、世界遺産の近くにある建築物として恥じない物
を作ったと話している。
改修前のビルの1階には、広島東洋カープの監督や選手などが利用した
喫茶店「マリーナ」が1978年(昭和53年)から2012年(平成24年)まで営業]。
元店主は経験を買われて、おりづるタワーのテナント誘致の業務を行っている。』という。

原爆ドームを訪問した後は、コンビニで、お酒とおつまみを買って、ホテルに帰りました。




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