お正月、広島・山口旅行Vol.20、客人神社本殿と、厳島神社、初詣イベント

お正月、広島・山口旅行Vol.20、客人神社本殿と、厳島神社、初詣イベント

今日の神戸は、晴れのち曇のち雪……。   
ややこしいお天気のようです。

今日は、セカオワライブ 
めっちゃ楽しみです♪
ギリで、インフルエンザも治ったようで、よかった~~!

昨日、このブログをアップする準備をしていたのですが、
めっちゃ暇かかりました!
あとは、TEDのDVD観たりして過ごしました。 
あの映画は、アメリカンジョーク満載なんでしょうか 
意味がわからないセリフがたくさんありました。

さて、お正月、広島・山口旅行、続きのお話は、
参拝入口で、昇殿料一人300円を納めて、厳島神社に入ります。
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最初の建物は、客人(まろうど)神社本殿で、
摂社の中で一番大きく、両流造り、桧皮葺
天忍穂耳命(あめのおしほのみこと)天穂日命(あめのほひのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野櫞樟日命(くまのくすのひのみこと)が祭られており、
厳島神社の祭典はここから始めるならわしになっているといいます。

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★厳島神社の初詣イベント
12月31日は18時より三笠浜で「鎮火祭」が行われます。
そして1月1日0時より「御神衣献上式」が行われ、
5時より「歳旦祭(舞楽奉奏)」と続きます。
1月2日は11時より「御松囃神能」として謡曲・仕舞の奉納が行われます。
13時からは「二日祭(舞楽奉奏)」舞楽2曲が奉奏されます。
1月3日は9時より「元始祭」が行われ、
祭典終了後の13時から舞楽奉奏(5曲)があります

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潮が引いていますね!

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海側に、楽器を演奏する左右楽房があります。

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舞楽を行う高舞台

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こちらは平舞台

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厳島神社本殿
参拝したのが、10時前だったので、9時の元始祭
終わったところでしょうか 
ご祈祷があるのかもしれませんね。

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Wikipediaによると、厳島神社は、      
『広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。
式内社(名神大社)、安芸国一宮。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
古くは「伊都岐島神社」とも記された。
全国に約500社ある厳島神社の総本社である。
ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている
広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。
厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。
平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。
社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。
そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財
の工芸品を多数納めている。
厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つに数えられるほか、
海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つである。
また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。

<祭神> 祭神は次の3柱(宗像三女神と同じ)。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) ・田心姫命(たごりひめのみこと)
 ・湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、
隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。
現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つとされている。

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<歴史>
●創建
社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職
が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命
祀る社殿を創建したことに始まるとされる。
「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。
厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」
という語源のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。
厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、
山岳信仰の対象であったとされる。
●概史
文献での初出は、弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事である。
平安時代中期の「延喜式神名帳」では「安芸国佐伯郡
伊都伎嶋神社
」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。
その頃には神職は佐伯氏が掌握した。
この社格が昇っていく過程で祭神が整備されていったと考えられており、
祭神の市杵島姫命が明記されるのは「一宮記」以降になる。
平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛
結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。
仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の
大規模な社殿が整えられた。
平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。
平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、
建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の
全てを焼失している。
そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に
造営されたものである。
厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは
地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。
鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる。
戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。
毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて
厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。
元就は大掛かりな社殿修復を行なった。
また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、
大経堂(現 千畳閣)の造営を行なっている。
江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。
明治維新後、神仏分離により大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。
明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、
明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。

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<社殿>
厳島神社の主要な社殿は、厳島の北部、大野瀬戸に面した
有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥に建つ。
湾のもっとも奥まったところに宗像三女神を祀る本社が北(厳密には北西)
を正面として建つ。
本社社殿は奥の本殿と手前の拝殿の間を幣殿でつないで
全体を1棟とする形式であり、拝殿の手前には祓殿(はらいでん)が建つ。
祓殿のさらに手前(海側)には「高舞台」と呼ばれる高欄付の舞台があり
舞楽の奉納などに使用される。
その周囲の屋根がない板敷の部分を「平舞台」という。
平舞台に接して、左右の門客神社(かどまろうどじんじゃ)、左右の楽房などの
小建物が建つ。
平舞台のもっとも海側は桟橋状に細く突き出ており、この部分を「火焼先
(ひたさき)と称する。
「火焼先」の延長線上には海中に大鳥居が建つ。
祓殿の側面からは左右に屈折する廻廊(東廻廊、西廻廊)が伸び、
厳島神社特有の景観を形成している。
東廻廊の途中、湾の東側には、摂社客神社(まろうどじんじゃ)が西を正面として建つ。
客神社も本社と同様に本殿・幣殿・拝殿・祓殿から成るが、
社殿の規模は本社より小さい。
以上の建物の大部分は海域に建っており、満潮時には建物が海上に
浮かんでいるように見える

このような立地にもかかわらず、各建物には何か特殊な建築技法が
使われているわけではなく、浅い海底に地上の建物と同様に礎石を据え、
杭(束)を立て、その上に板床を張っている。
木製の杭は満潮時には海水に浸かるため腐食をまぬがれず、定期的に
点検を行って、腐食が判明した場合は根継ぎを行っている
(平舞台のように、石造の杭を用いている部分もある)。
本社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、本社祓殿(はらいでん)、
摂社客神社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、摂社客神社祓殿、
東廻廊、西廻廊の計6棟が1952年に国宝に指定されており、
高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房は国宝の「附」(つけたり)
指定扱いとなっている。
記録によると、かつての厳島神社には夏堂(本地堂)、粥座屋、
朝座侍屋
があったことが分かっている。
また、付加された建築としては天神社、能舞台などがある。
社殿は波の穏やかな瀬戸内海の島の北岸に位置するとはいえ、
海域に建っているため、台風などによって被害を受けることもしばしばである。
20世紀以降では、1945年9月17日の山津波で各建物の床下に土砂が
流れ込む被害を受けた。
1950年9月13日のキジア台風と1951年10月14日のルース台風でも
高潮の被害を受けている。
1991年9月27日の台風19号による被害は甚大で、左楽房の部材が流出し、
それをロープで繋ぎ止めている間に能舞台が倒壊した。
2004年9月の台風でも左楽房が倒壊するなどの被害があった。
こうした高潮等の被害のため、外海寄りに位置する左右楽房、
平舞台などはたびたび修理を受けており、古い部材は残っていない。
一方で、本殿・幣殿・拝殿などの主要建物は、1991年の台風で
檜皮葺屋根がめくれるなどの被害はあったが、建物の根幹部は
さほど甚大な被害を受けていない。
以上のように、厳島神社の社殿は台風に伴う土石流、高潮など
の被害をたびたび受けている
。しかしながら、毎回被害を受けるのは能舞台、門客神社、楽房など
の一部の建物に限られている。
これらの建物は平清盛の時代には存在せず、後に追加されたものであり、
いずれも簡易な構造の附属社殿である。本殿、拝殿などの主要建物は、
1991年の大型台風の際にも被害は僅少であった。
建築史家の三浦正幸は、厳島神社の本殿内陣は清盛の時代以来850年間、
一度も水没したことがないとしたうえで、当神社の主要社殿は200年に
一度の高潮にも水没しない位置を選んで建てられているとし、
台風の被害を受けるのは清盛時代には存在しなかった社殿(門客神社、
楽房など)のみだとしている。
また、当神社の社殿が海域に建っているにもかかわらず、柱の不同沈下を
起こさないのは、社殿の建つ位置がもともと陸地であったところを掘削して
海としたためであり、社殿は大きな岩盤の上に建っているのではないかとする
厳島神社の社殿が現在に近い形に整備されたのは、平安時代末期であり、
安芸国守に任じられた平清盛の援助を受け、当時の神主佐伯景弘によって
社殿が造営された。
当時の社殿は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭い、
現存する社殿の主要部は貞応の火災後、仁治2年(1241年)に再建
されたものである。
本社の幣殿・拝殿・祓殿、客神社の本殿・幣殿・拝殿・祓殿はこの時の建物
であるが、本社本殿は室町時代に建て替えられており、棟札から元亀2年
(1571年)の再建と判明する。
この時の再建は火災に伴うものではなく、永禄12年(1569年)、毛利元就と
対立した備後の豪族和智兄弟が本殿に立て籠もり殺害されるという事件
があり、社殿が血でけがれたとして建て替えられたものである。
これらの社殿は中世の再建ではあるが、その規模や様式は平安時代末期
のものを引き継いでいるとみなされている。
摂社客神社の社殿は永享2年から5年(1430 - 1433年)に大規模な修理を受けている。

本社、客神社、廻廊など、海域部分に建つ建物の屋根はいずれも
檜皮葺である。
本社の社殿は、奥から手前に本殿・幣殿・拝殿・祓殿の順に並ぶ。
これらの社殿の平面や配置をみると、完全な左右対称形ではなく、
幣殿と祓殿は本殿から見てやや西寄り(正面から見て右寄り)
の位置に建っている。
また、本殿と拝殿は柱の配置が左右対称になっていない。
一般に神社建築では各柱間を等間隔にするか、正面中央の柱間を
広く取るのが普通だが、厳島神社本社の本殿・拝殿では、もっとも広い
柱間は西寄りの位置にあり、社殿全体の中軸線が西側に寄っている
本社本殿の屋根は、切妻造の正面・背面の両方を長く伸ばし、
その伸ばした部分を庇とした形で、このような屋根形式を「両流造」という。
本殿の柱間は桁行(間口)が正面8間・背面9間、梁間(奥行)が4間である。
構造的には桁行9間、梁間2間の身舎の前後2方向に庇を付けた形になる。
桁行背面の柱間が9間であるのに対し、桁行正面の柱間が1間少ない
8間となっているのは、正面側では柱を1本省いているためである。
すなわち、背面では柱が規則的に10本立つ(柱間は9間)のに対し、
正面では向かって右から5本目にあたる柱を省いて、その部分の柱間を
他より広く取っており、ここが社殿の中軸部になる。
本殿の内陣には6基の宝殿を安置する。
6基のうち3基には宗像三女神を祀り、残りの3基には相殿神
呼ばれる神々を併祀する。
このうち、主神の市杵島姫命の宝殿を安置する部分のみ柱間が
他よりも広くなっており、これが前述の中軸部にあたる。
以上のような理由で、本社では社殿の中軸が西方(向かって右)にずれている。
本殿の組物は平三斗(ひらみつと)で、中備(なかぞなえ)は
中軸部の柱間が蟇股(かえるまた)、その左右の柱間は間斗束
(けんとづか)とする。
蟇股は明治14年(1881年)の修理時の新造だが、摂社客神社本殿の
蟇股と似ていることから、修理前の古い形態をとどめているものと思われる。
本殿正面の柱間装置は、中央6間を引違いの菱格子戸、両端の間を連子窓とする。
幣殿は本殿・拝殿間をつなぐ廊に屋根を付けた形になり、方1間、
両下造(りょうさげづくり)とする。
両下造とは、切妻造と同じ屋根形態だが、両端が別の建物に
接するため妻面がないものを指す。
拝殿は入母屋造、桁行10間、梁間3間で、組物は舟肘木を用いる。
神社の本殿・拝殿の正面柱間は3間、5間などの奇数となるのが普通で、
偶数の10間とするのは異例である。
拝殿も本殿と同様に左右非対称で、右から5間目の柱間のみが特に広く、
この部分に幣殿が取り付く。拝殿内部は、柱の省略がなく、1間ごとに
規則的に柱が立つ。
梁間3間のうち、中央の1間と奥(南側)の1間とはそれぞれ化粧屋根裏とする。
化粧屋根裏とは、天井を張らず、桁、垂木等の構造材をそのまま
見せるもので、建物内部から見上げると、切妻造の建物2つが
前後に接して建っているように見える。
この2つの棟を覆って建物全体の棟があることから、全体を「三棟造
といい、この拝殿のことを別名「三棟」ともいった。
祓殿は拝殿の手前に棟を直交させて建つ入母屋造、妻入の建物で、
桁行6間、梁間3間である。全面吹き放し(柱間に壁や建具を入れない)の開放的な建物である。
本殿裏手の陸地部は後園(うしろその)と呼ぶ禁足地となっている。
禁足地には玉垣をめぐらし、中央に不明門と呼ぶ本瓦葺の四脚門が建つ。
不明門は祭神が弥山から社殿へ降りる際に通る門とされ、
人が通行することはない。
平舞台は、浅い海底に立てた石柱の上に大引と根太を渡した
軸組の上に床板を張ったものである。
石柱は赤間石製で、毛利元就の寄進とされる。
床板は、高潮時の水圧を逃がせるように、隙間をあけて張られているが、
それでも台風などでたびたび破損している。
平舞台の中央付近を一段高くして高欄をめぐらし、この部分を高舞台と称する。
平舞台の前方は外側に左右の楽房、内側に左右の門客神社がある。
楽房は切妻造の簡素な建物、門客神社は切妻造の覆屋内に流造の社殿がある。
これらの舞台や建物は台風などの被害をもっとも受けやすい位置にあって、
たびたび破損と修理を繰り返しており、古い部材は残っていない。』という。

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お神酒をいただきました!
一応100円納めさせていただいたんですが、めっちゃ一口だけ!

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おみくじは、吉! 

1.3厳島神社ご朱印
ご朱印と、お守りと、しゃもじ。

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1.3厳島神社 (50)_resized
『<廻廊
東西廻廊は一般の神社の廻廊のように敷地を四角く区切るものではなく、
海上の各建物と陸地とを結ぶ渡り廊下の役を果たしている。
西廻廊は折れ曲がり62間で、西端は地上部に発し、海上に建つ能舞台を
囲むように4回直角に折れた後、本社祓殿西面に接続する。
東廻廊は折れ曲がり45間で、東北端は地上部に発し、客神社の祓殿と
拝殿の間を通り、3回直角に折れた後、本社祓殿東面に接続する。
両廻廊とも組物は舟肘木とし、平舞台と同様、床板は高潮時の
水圧を逃がすため、隙間を空けて張っている。
内部架構は梁間方向に直材の虹梁を渡し、その上に又首(さす)を組み、
又首上の舟肘木で桁を支える。
廻廊には棟札が多数残り、室町時代末期から桃山時代にかけて
順次整備されたものであることがわかる。
廻廊の現在の床板は明治末期頃に張り替えたもので、
磨滅防止のため、本来の床板の上に保護板が張られている。

1.3厳島神社 (52)_resized
<摂社、末社、附属建物>
以上の国宝建築物のほか、摂社、末社、附属建物など14棟(厳密
には8棟と橋3基、塔2基、鳥居1基)が重要文化財に指定されている。
本社周辺の海上に建つ建物としては、摂社大国神社本殿、
摂社天神社本殿、朝座屋
(あさざや)、能舞台、揚水橋(あげみずばし)、
長橋、反橋があり、湾の入口付近には大鳥居がある。
厳島神社の主要な建物は海域に建つが、地上部分にもいくつかの建物がある。
本社背後の社務所近くには校倉造り宝蔵が建つ。
湾の東岸の塔岡(とうのおか)には末社豊国神社本殿と五重塔があり、
丘の麓には末社荒胡子神社本殿がある。
豊国神社本殿は「千畳閣」の通称がある本瓦葺きの大建築で、
もとは「大経堂」と称された。
湾の西岸には宝物館の裏手の高台に多宝塔があり、
やや離れた大元浦には摂社大元神社本殿がある。
五重塔、多宝塔、豊国神社本殿などの仏教建築が今も残り、
神仏習合の名残をとどめているのが厳島神社の特色である。
●摂社大国神社本殿 :本社本殿の西に位置する。
切妻造、檜皮葺。桁行3間、梁間4間。桁行3間のうち東の1間は
幅が広く、南側に位置する長橋に通じる通路としている。
室町時代の建立で、本社本殿と同じく元亀2年(1571年)、
毛利元就の造営と考えられている。
●摂社天神社本殿 :大国神社本殿の西南に位置する。
入母屋造、檜皮葺。桁行3間、梁間3間。弘治2年(1556年)の建立。
他の社殿群が朱塗であるのに対し、本建物は素木造である。
朝座屋:本社本殿の東方、東廻廊に接して建つ。
片側入母屋造、片側切妻造、檜皮葺。桁行8間、梁間4間。
桃山時代の再建。
能舞台:本社拝殿の西方の海中に建ち、北側を除く三方を
西廻廊に囲まれている。切妻造、檜皮葺
桁行・梁間とも1間。橋掛と能楽屋を伴う。
延宝8年(1680年)、広島藩主浅野綱長の寄進により建立。1
991年の台風で倒壊し、柱4本のうち3本は取り換え材である。
長橋:本社本殿の南西方、大国神社本殿と南の陸地部を結ぶ橋。
桃山時代の建立。
橋脚は石造だが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている。
●反橋:長橋の西方、西廻廊と南の陸地部を結ぶ弧形の橋。擬宝珠に弘治3年(1557年)の銘がある。擬宝珠は古いが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている
揚水橋:本社本殿の東方、東廻廊と南の陸地部を結ぶ短い橋。
桃山時代の建立。
●末社豊国神社本殿:明治以降は豊国神社となっているが、もとは大経堂で、
豊臣秀吉が天正15年(1587年)に戦没者の供養のために発願した建物である。
秀吉が毛利輝元に命じて建立させ、実際の建築の指図は
安国寺恵瓊によって行われた。
この建物の鬼瓦には天正17年(1589年)の銘を有するものがあり、
この頃までには建物の形ができていたと思われるが、その頃、
秀吉が朝鮮への出兵を決意したことにより建築工事は中断し、
細部の造作は未完成のまま今日に至っている。
入母屋造、本瓦葺
柱間は桁行13間(背面は15間)、梁間8間、実長は桁行39.5メートル、
梁間21.1メートルの規模を有し、外周には軒の出を支えるため
軒支柱をめぐらせている。
この建物は規模の大きさから「千畳敷」と通称されるが、
床は畳敷ではなく板張である。
内部は2間ごとに独立柱が立ち、中央奥に須弥壇を設ける。
宝蔵:校倉造。屋根は寄棟造、檜皮葺。室町時代の建立。
●五重塔:応永14年(1407年)の建立。檜皮葺。日本の他の仏塔と同様、建築様式は和様を基調とするが、四隅の軒の強い反り、柱の粽(ちまき)、尾垂木の先端を三角形状に削る点など、細部に禅宗様の要素がみられる。
●末社荒胡子神社本殿:一間社流造、檜皮葺の小社殿。
嘉吉元年(1441年)の建立。
多宝塔:檜皮葺。大永3年(1523年)の建立。
●摂社大元神社本殿:三間社流造、流板葺。大永3年(1523年)の建立。
前方の庇部分を、正面は菱格子戸、側面は板壁で囲い、
前室として取り込む形式が珍しい。』という。

1.3厳島神社 (53)_resized
反橋



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