皆生温泉旅行Vol2.金持神社

皆生温泉旅行Vol2.金持神社

今日の神戸は、晴れ!
今日も最高気温が34℃の予報!
暑い1日になりそうですね。

昨日は、ZUMBA♪と、ファンクショナルコンディショニング、
筋膜ほぐしと、ヨガ、楽トレで腹筋1時間 
お風呂でキャビスパ!
けっこう熱さで疲れている樹がします。
前日、晩ご飯の後に、チョコのジャイアントコーン食べたりしていたのに、
500gぐらい体重が減っていました。
暴飲暴食しなければ、少しは体重落ちるかな 

さて、皆生温泉旅行、続きのお話は、根雨を通り過ぎて、
181号線を走っていると、けっこうわかりやすく金持神社P
の看板が見えてきました!
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絵馬は駐車場横の売店で買ってから参拝!とネットに
書いてあったのですが、社務所でも売られていました。
この日は、どこかのTV局の撮影が入っていました。
写ってもいいと言われましたが、ご遠慮しました!

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金持党発祥之地の碑文。
『ここ鳥取県日野郡日野町金持は,全国に広がる金持一族発祥の地である。
古代,鉄を産したことにより当地は「かもち」と呼ばれ「金持」の漢字があてられた。
やがてここに藤原姓の金持党が生まれ鎌倉時代初めの元久年間には
金持弘親公が伯耆守護となるなど,砂鉄を背景として次第にその勢力を広げた。
その後,宝治合戦で敗れて雌伏していた金持党が再び世に現われたのが元弘の変である。
隠岐を脱出した後醍醐天皇は,名和長年の援けを得て
船上山に拠り鎌倉幕府追討の檄を飛ばした。
これに応えて馳参じたのが金持大和守景藤公率いる三百余騎の軍勢であった。
景藤は後醍醐天皇の京都帰還の際には,錦の御旗を奉じてその左に
従うなど,股肱の臣として建武新政の重要な地位を占めたのである。
以後,金持党は終始南朝方として各地を転戦した。
しかるに南朝は次第に衰亡,伯耆は北朝方の山名氏によって
支配され金持党はその本拠を失うに至った。
しかし,金持党の末裔は転戦先にてその名字を残している。
金持の地を離れたことにより,読み方は「かなじ」「かなもち」「かねもち」
などに変わったが,多くはここ金持党の末裔である。
金持党誕生以来九百余年その本貫であるこの地に碑を建立するものである。』

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金持礫岩 
『礫岩は色々な種類の石が礫として集合し、堆積することにより
岩石となったものです。
含まれる礫の一つ一つを調べると、地球の永い歴史を読み取れます。
金持礫岩は、ここ金持地区に、少量その分布が認められ、
中生代白亜紀(今から約1億年前、恐竜がいたころ)にできたと考えられています。
しかし、この岩石には、それよりも古い時代の花崗岩や変成岩などの
岩石が礫として存在し、礫以外の部分(基質)を火山性の物質が占めて
いることから火山活動によってできたと考えられています。
地質学的にはまだまだ謎に満ちた貴重な岩石です。 
平成19年11月 解説:島根大学 松本一郎』

売店で絵馬を買い、売店手前の橋を渡って金持神社に向かいました。
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手水舎 

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鳥居をくぐると、すぐ右手にチャンチンの樹があります。

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<境内の銘木>
『金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチン
の2本があり樹齢600年位と云われています。
サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために
植えられたものと考えられています。
チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、
先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。
県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。 』

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樹の幹にお賽銭があるので、私も 
ボケボケですが、50円!

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神社にお参り。2礼2拍手1礼 

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金持ち神社(かもちじんじゃ)   
神社HPによると、 
『<御祭神>
天之常立尊(あめのとこたちのみこと)
八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)
淤美豆奴命(おみずぬのみこと)
天常立尊を御祭神とする全国でも数少ない神社。
国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

<由来>
810年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を
通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の根付の
玉石が急に重くなりました。
そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りした
と伝えられています。
金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、
原料の真砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されている
ように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷
を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

金持ち性のルーツ
日本で一番景気の良い名字の「金持」。
その金持姓のもとになった地名がこの地です。
歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親は1205年から守護職として、
この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、
国宝・太刀「童子切安綱」で知られる
日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。
吾妻鏡」などにも記載のある由緒ある名字の「金持」。
全国の「金持さん」、自分のルーツを探しにぜひこの地へ。

<金持景藤公が必勝祈願>
この地の豪族、金持景藤は、1333年、隠岐を脱出された後
醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。
その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。
京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が
金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。
金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が
金持地内に現在も残っています。

開運伝説
長谷部信連公の再起」 平家物語や源平盛衰記など
多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。
1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、
信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。
そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。
その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。
平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の
検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、
のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として
明治まで続く長氏の始祖となりました。』という。

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招き猫のかわいい絵馬を奉納 
事業の発展と、ファミリーの繁栄を祈願!

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これが、サワラの樹でしょうか 

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社務所

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ご朱印をいただきました!

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ここの神社、凶をひくと、開運のお守りをくださるそう 
お心遣いがありがたいですね!

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おみくじをひくと、大吉  
いいことありそう!

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民家の壁に、「万」の文字。
何かご利益があるのかと思ったら、中華料理屋さんの看板!

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宝くじに当選した人の感謝の絵馬がたくさん  
何度も大口当選された方もいらっしゃって、びっくり! 
私も宝くじ買わなくちゃ 
と思って買ったんですが、1,000円当たっただけでした。
それでも、100円よりいいよね!



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