宝塚歌劇「エリザベート」2005年月組公演

宝塚歌劇「エリザベート」2005年月組公演

今日の神戸は、曇のち晴れ! 
まだまだ暑い1日のようです。

昨日の朝は、Jアラートで、朝の6時に起こされ、
TVをつけても、詳細情報がなかなか流れなかったので、
やきもきしました。
何事もなかったからよかったようなものの、
ホンマ、お騒がせ独善国家には困ったものです。
お蔭で、8時まで寝る予定だったので、1日中眠たかったです。

昨日は、眠たいまま、アクアズンバと、プールサイドストレッチ、
平泳ぎ500m、クロール500m、
ヨガと、ZUMBA♪と、お風呂でキャビスパ!
けっこうがんばりました!

ジム友が、私が、先日、宝塚歌劇に行って写真を撮ってきて、
「エリザベート観た~~い!」と言っていたので、
宝塚歌劇2005年月組公演の「エリザベート」のDVD
持って来てくれました~~!
旦那さんが、宝塚歌劇の大道具さんなんだそうです!
エリザベート宝塚
「エリザベート」-愛と死の輪舞(ロンド)-
トート:彩輝 直  エリザベート:瀬奈 じゅん 
フランツ・ヨーゼフ:初風 緑  ルキーニ:霧矢 大夢 
ルドルフ:大空 祐飛 ルドルフ(少年時代):彩 那音 
ゾフィー:美々 杏里

1992年にウィーンで初演されたミュージカル「エリザベート」を、
宝塚歌劇版としてアレンジしたもので、、1996年に雪組で初演、
星組(1996年)、宙組(1998年)、花組(2002年)と再演を重ね、
2005年月組では、この公演がサヨナラ公演の彩輝直がトート役、
エリザベート役には瀬奈じゅんが扮した。

お話は、史実に、死神トートのエリザベートへの愛を
絡ませて展開する。
けっこう長い作品でした!

Wikipediaによると、
エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・
フォン・ヴィッテルスバッハ

(ドイツ語: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、
1837年12月24日 - 1898年9月10日)は、オーストリア=ハンガリー帝国
の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后
シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られる。

<生涯>
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系の
バイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカ
の次女として生まれた。
幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者
に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、
王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも
知らぬそぶりで歓迎し、エリーザベトは後年、「私が唯一自ら
稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、
また狩りに行くなどしていた。
王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。
そんな生活は1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、
母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて
求婚されたことによって終わりを告げた。
シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、
不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。
しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。
お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を
教えたマイラット伯爵は、彼女が最初に出会ったマジャル人だった。
伯爵は共和制の素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、
彼女に多大な影響を与えた。
1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。
しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、
母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の
厳格さに耐えられず、また、マイラット伯爵の教育を受けた
エリーザベトがハンガリーや当時独立を求めていた北イタリア
に同情的であることを察したゾフィーは、エリーザベトの影響で
フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーやイタリアに寛容になること
を嫌い、中傷ビラを撒く、エリーザベトが宮殿の外に出た際
には暴徒に囲ませる、といった嫌がらせをした。
徐々にエリーザベトは人前に出ることを極度に嫌がり
宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、大西洋に浮かぶ
マデイラ諸島などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、
あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、
生涯に渡りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた。
エリザベート肖像2
ハンガリー王妃戴冠時のエリーザベト(1867年)

<ジュラ・アンドラーシ伯爵>
特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時
オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。
ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、
エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。
その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を
身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。
穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、
1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの
自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては
陰の推進者の役割を果たした。
アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、
帝国外相となる。
エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺
であった(1889年、暗殺説もある)。
夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、
その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはなかった。
1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の
無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣の
ようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。

<人物>
当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと
背が高く、ウエスト50センチで体重は生涯43〜47キロという
驚異の体形の持ち主だった。
美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや
美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺と
シミだらけになった顔を分厚い黒のベールと革製の高価な扇や
日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを
表す姿として伝説となっている。
交友関係では、ヴィクトリア女王とは親しくなかったが、その息子の
エドワード7世とは、ルドルフ皇太子と共に親しかったという。
他には、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン大公の妃で
義妹のベルギー王女シャルロッテとの仲は険悪だったが、
同名のルーマニア王カロル1世妃エリーザベト(カルメン・シルヴァ
の筆名で知られる)とは、ドイツの王家出身、皇后・王妃であり
ながら君主制・貴族制の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、
王侯貴族などの気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、
現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、
死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒など、
数え切れない程多くの共通点があり親交があった。
彼女は詩人の中では、「革命詩人」と呼ばれるハインリヒ・ハイネ
を好み、彼のことを深く尊敬し、「師」と呼んでいた。
また、エリーザベトはハイネの作品を知り尽くしており、専門家
として彼女に教えを乞いに来る人もいた程だった。
従甥で「狂王」と呼ばれるバイエルン王ルートヴィヒ2世とも
一時期親しかったという。
彼らは世間や堅苦しい宮廷を嫌って逃避行を繰り返し義務を
放棄して快楽に耽り、精神を病んで奇行を連発する桁外れの
浪費家同士で意気投合したとされるが、ルートヴィヒ2世は
彼女に片思いをしていたため(ルートヴィヒ2世は同性愛者
だったため、あくまでも純粋な友情に過ぎないとする説もある)、
王の前途を心配したエリーザベトは妹のゾフィーと婚約させよう
と計画した。
しかし、ルートヴィヒ2世は全く関心を示さず、婚約は破棄された。
エリーザベトはこれに激怒し、二人の仲は険悪になり、それが
後にルートヴィヒ2世を現実逃避させて精神状態を急速に悪化させ、
国費を浪費する遠因になったとも考えられる。
しかしエリーザベトは、ルートヴィヒ2世が逝去した際には
たいへんなショックを受け、家族の皆が深刻に心配する程
精神状態が悪化した。

エリザベート肖像
ヴィンターハルターによるエリーザベト皇后
エリーザベト皇后ドレスはチャールズ・フレデリック・ワースによるデザイン
1
865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いた宮廷画家
ヴィンターハルターから彼女の話を聞いたフランス皇后
ウジェニーがエリーザベトに興味を持ち、翌年オーストリア
のバート・キッシンゲンで保養に行く際に私的に表敬訪問したい
と申し出たが、彼女は気乗りがしなかったらしくこの申し出を
断っている。
しかし1867年6月19日、ナポレオン3世がメキシコ皇帝の座に
就けたマクシミリアンがケレタロで銃殺刑に処されたため、
この年の8月にナポレオン3世とウジェニーが、オーストリアとの
一種の調停訪問を目論み、ザルツブルクでの2人の美貌の皇后
の対面が実現した。
マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス
皇帝夫妻を冷ややかに迎えたが、2人の美しい皇后が見られる
ということには大変関心を寄せた。
そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウジェニーでは
あったが、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳や美しさと
比べてもなんら遜色ないと市民たちの目には映った。
ただし保守的なザルツブルク市民たちは、ウジェニーの服装が
最新のパリ・モードにそってスカートの裾があだっぽく絡げてあるため、
足がのぞいて見えるのをはしたないことと見なした。
2人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトに比べ、ウジェニー
のほうがだいぶ小柄だったという。
またエリーザベトはイギリスのアレクサンドラ妃の美貌と
自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていたが、実際は
アレクサンドラは非常に背が低く胴長短足であるうえ、首に醜い
手術痕があり、頭には奇妙なへこみがあるなど、容姿は
エリーザベトより劣っていた。
しかしエリーザベトにも、面長で顎がしゃくれている点や、極端な
撫で肩、鼻の穴が大きい(ヴィクトリア女王も「鼻の形は美しくない」
と漏らしていた)、手足が丸太のように太いという欠点があった。
特に本人が最も気にしていたのは、歯並びが悪く黄ばんでいることだった。
見合いの席でゾフィー大公妃はそれを指摘し、彼女に「歯を磨くように」
と言いつけている。
エリーザベトはそれを気にするあまり、毎日懸命に歯を磨き、
人前では常に口をきつく結んでほとんど話さず、話す時には
扇子で口を隠していた。
しかし、肖像画ではこれらの欠点は見事に隠され、美化されている。
夫のフランツ・ヨーゼフ1世に宛てて書いた手紙の
「確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。
でも、私にとっては得体が知れないのです……」という言葉から
わかるとおり、エリーザベトは人の好き嫌いが激しく気難しい性質
だったため、ゾフィー大公妃の選んだ気に入らない女官を全員解雇
して周囲をお気に入りのマジャル人侍女のみで固め、女官には
徹底的に控えめに振舞うこと、ウィーンから離れた生活に耐え
自分の旅行にずっとついて来ること、数時間ぶっ続けの激しい
早歩きにずっとついて来ること、生涯独身を貫くことなどを要求した。
また自分とは正反対の、良妻賢母として知られるマリア・テレジア
を敬愛し、病人や障害者、貧しい民衆に同情するなどの一面も
あったが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切
放棄かつ拒否し続け、欲望のままに放縦な生活を送り続けた。
エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、
若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの
コルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、彼女個人
あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、
彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを
税金で行っていた。
だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、
乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。
皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評される
こともあるエリーザベトだが、一方で尊大、傲慢、狭量かつ
権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て
放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、
皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を
旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で
傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。
当時のベルギー大使夫人は、「この女性は本当に狂っています。
こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、
この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。
ただしハンガリー統治に関しては非常な関心と情熱を傾けたため、
過去に近隣の大国に翻弄され、分割・被支配とさまざまな苦難
の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎
を築いた人物として、今もハンガリーの人々には慕われている。
そして彼女が嫌ったウィーンにおいても観光のシンボルとして
肖像画を見ることができる。』という。

エリザベート (1)_B
私も、戴冠式のエリザベートの衣装を着ましたよ!
よくみると、羽の扇子の大きさが小さすぎるね!

P8293063.jpg
昨日の晩ごはんは、新物秋刀魚の塩焼きと、
ニラ饅頭(ちょっと焦げちゃった!
豆腐やアスパラのサラダ、 
チョコのジャイアントコーン! 



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