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初名古屋旅行Vol.6,大須観音

初名古屋旅行Vol.6,大須観音

今日の神戸は、晴れ!
ただし、ざっと雷を伴う雨が降る可能性があるようです。
火曜日は、台風21号に直撃されそうですね。
みなさん、備えは早めにして、安全にお過ごしくださいね 

昨日は、ZUMBA♪と、パワーヨガ、ブルブルマシーン、
交流磁気治療と、お風呂でキャビスパ!行ってきました!
日曜日のZUMBA♪は、久しぶり 
おじさん率が高くて、びっくりしました!
パワーヨガは、代行だったんですが、キツかった~~!
宝塚の男役みたいな声の先生で、ずっとしゃべってへるねんけど、
何言ってるか聞き取れない部分が多かったです。
ただ、「自分の体は1つしかなくて、住みかえるというわけには
いかないものだから、きちんと大事に使ってあげましょう」 
みたいなことをおっしゃっていて、なるほどなぁ!と感心しました!

さて、名古屋旅行、続きのお話は、名古屋城を出たところから!
次の移動は、バスを使う予定だったのですが、正門から出ると、
乗る場所が違うみたいで、バス停を探すのも面倒になって、
結局タクシーを使うことに!
せっかくドニチエコきっぷ買ったのに、元が取れず、もったいなかったです。
名古屋のタクシーの初乗運賃は、450円(1050m)で、安い 
と思ったのですが、以後235mごとに80円UPしていくので、
あれよあれよという間に、料金が上がっていきました。
ちなみに、神戸のタクシーの初乗りは、680円(1800mまで)です!
以後253mごとに80円UPしたいきます。
小型車は、中型車より20円安い、660円です。
結局、神戸の方が、安いやん!

大須観音に到着  
元々、名古屋城で、おもてなし隊のショーなどを見ていたら、
立ち寄る時間はないと思っていたのですが、とにかく暑いし、
座りたいしで、早く切り上げたので、立ち寄ってみることにしました。

ウィキペディアによると、
日本三大観音の1つとも言われる観音霊場である。
なごや七福神の一である布袋像を安置する。
寺内に、「古事記」の最古写本をはじめとする貴重書を
多数蔵する「真福寺文庫」がある。』という。
大須観音 (2)_resized
仁王門:本堂へ参拝するための入り口で、左右には仁王像が
奉安されており、悪い物から山内をお守っています。

大須観音 (3)_resized
本堂:御本尊・聖観音さまをお奉りする「大悲殿」。
大須観音の中心。
本堂は明治時代の大須の大火、戦災で二度焼失しており、
現在の本堂は、昭和45年に建て直されたものだそう。

大須観音 (6)_resized
本堂では、ご祈祷が行われているところでした。

大須観音 (4)_resized
鐘楼堂・華精の鐘(女人梵鐘):昭和41年
よい子たちの成長を祈る「母の愛」の鐘として、地元婦人会を中心に、
女人のみの寄進で女人梵鐘の銘のもと鋳造、四面の池の間には
杉本健吉画伯、四季の花、梅、牡丹、蓮、菊(インド、中国、日本の
代表的な花で仏教東漸を表す)の中心に、華の精の姿を描く
「一打即滅無量罪」(一つ撞けば限りない罪がなくなる)「一打即生無尽蔵」
(永遠に楽しく生きる)を願い、万民豊楽を、祈念するものなり。
尚、この女人梵鐘には、当時の名古屋市長、杉戸清氏により、
「華精の鐘」と命名され、毎朝六時、私達に妙なる音韻を響かせている。
高さ二メートル 重量1500キロ 直径1メートル 音韻持続2分
『女人梵鐘鳴り渡る 和む響きが身をつつむ 万の人が助け合う 
仏の教えの鐘が鳴る』という。

大須観音 (7)_resized
すぐそばに、大須商店街入り口があります。

大須観音HPによると、
『当寺は、もと尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)にありました。
御開山は能信上人(のうしんしょうにん)です。
元亨四年(1324年)後醍醐天皇は、勅願を下したまい長岡庄に
北野天満宮を御造営になりました。
天皇は能信上人に深く御帰依(きえ)になり、元弘三年(1333年)上人を
その別当職に補し、「北野山真福寺寶生院
(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」という寺号をたまわりました。
能信上人は当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間
おこもりになり、「この世の人々が、おすくいをうけ、おめぐみをいただきますには、
どなたさまをおまつりいたしたらよいでしょうか」と一心不乱においのりになりました。
上人の誠は神に通じ、ある夕べの霊夢に、「大慈大悲の観世音
こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である。」
とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴いお姿を拝されたのであります。
そのお姿は、むかし弘法大師が一刀三礼御彫像(いっとうさんらい
ごちょうぞう)あそばされた摂州四天王寺の大慈大悲
の観世音菩薩
に寸分たがわぬ御尊影でありました。
この霊夢のふしぎは、後村上天皇の御代にいたり朝廷にたっし、
みことのりによって、当寺に移され、ご本尊と仰ぐこととなったのであります。
それからのち、霊験はまことにあらたかなものがありました。
後村上天皇も厚く上人に御帰依になり、伽藍(がらん)を建立し、田地をたまい、
すえ長く「勅願寺となす」とのありがたいみことのりを下されました。
能信上人は、学徳ともに高いお方で、当寺の所蔵する多数の書物は、
東西の学者が珍重しているところですが、それらの多くは、
上人がお集めになったものです。
さらに上人はすべてのひとびとら尊信をうけ、ある時には神宮の巫女が、
僧伽梨衣(そうぎゃりい)というおけさを大神のおさずけとして持ち来り、
又ある時には、神人が鬼面を持って来て「この面は観世音垂跡(すいじゃく)
の夜叉面ゆえに、加持を加え、諸人の禍(わざわい)をのぞき、
福をさずけよ」と申したと伝えております。
そしてこれらは寺宝となって伝わっています。
御本尊の霊験は年とともに海内にひびきわたり、第二代住職は信瑜上人、
第三代住職としては任瑜法親王がおつぎになり、寺領も一万余石におよび、
伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺としました。
そののち戦国の世となりましたが、織田信長公も寺領五百石を寄進し、
徳川家康公に至っては、名古屋を建設経営するにあたり、
慶長十七年、まず第一に、当寺を、いまのこの地に移されたのであります。
はたせるかな霊験、日に日に新に、善男善女の参詣きびすを接し、
市の一大中心として繁栄し、「大須観音」と俗称され、
真言宗智山派別格本山として、今日に至っているのであります。』という。

長い階段を上って、大須観音さんに、ちょこっとだけご挨拶をした後、
大須商店街探検です!



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